京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター

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伝音アーカイブズ

2013年度でんおん連続講座(D)「謡を楽しむ文化―京観世とその周辺」

このページでは2013年に開催された、でんおん連続講座(D)「謡を楽しむ文化―京観世とその周辺」の各回内容と配布資料を紹介しています。

開講時の紹介文を受講案内より以下に転載します。

現代の謡は、複雑な技法と高い精神性をもった芸術的な音曲ですが、その音楽的骨組みはじつは簡素で合理的です。したがって謡には、初歩の手ほどきを受けただけで自由に楽しめる手軽さが、本来備わっていたのです。手軽さゆえに謡は、娯楽や儀礼に用いられ、季節の節目をいろどるのに必要不可欠な音曲とされていました。
この講座では、謡が身近な場所で楽しまれ、必要とされていた近代までの様子を、残された資料から明らかにしたいと思います。毎回、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターのプロジェクト研究「京観世の記録化」のメンバーが、関連する話題を提供します。音曲としての謡に興味を持っておられる方、その歴史的背景に関心をお持ちの方、どうぞご参加下さい。


第1回(10月9日) 大谷節子「岩井七郎右衛門家と岩井家蔵書」

 岩井七郎右衛門家は、江戸中期に岩井直恒(享和二年没)を生んだ京観世五軒家(きょうかんぜごけんや)の一つである。岩井家歴代については、岩井家の筆頭弟子であった大西家に伝えられた文書によって略系図を記したことがあるが(拙稿「京観世岩井家の明和本批判――岩井七郎右衛門家旧蔵文書から――」(『能と狂言』六号二〇〇八年四月)、今回、岩井弘氏蔵の資料を加えることによって補訂を行った(レジュメ参照)。岩井家があったのは、中京区新町通姉小路上ル神明町。墓は三条大橋東の檀林法林寺内にあるが、社中の建立による直恒の碑が、金戒光明寺(京都黒谷)や一心寺(大阪天王寺)にある。
岩井家の旧蔵書は、岩井家七代信発没年の翌年、文久三年に大西寸松が記した仮綴無題の目録によって知られる。その中には、沢庵和尚讃黒雪斎肖像、老陽巻物、直恒聞書、直恒覚書四冊、秘書十四冊、秘書二十九冊、鷺流狂言方衣装附一冊、同流狂言名寄一冊、狂言セリフ、間之本三冊、禁中御能之図、幸若諷(箱入)、宴曲集(拾菓集一冊ほか合て六冊)など、注目される書名が並んでいる。この中には、研究会(六麓会)で輪読している岩井家四代直恒の覚書など現存しているものもあるが、これまで岩井家に伝えられていたことが知られていなかったものが多く含まれている。その」一部は、岩井弘氏が伝えられている資料に重なり、新たに所在が確認されたものである。鉄砲焼けや戦後の混乱で、消失あるいは散逸したものも少なくないであろうが、現在各地の図書館や個人宅に収蔵が確認されているものもあり、今後の照合調査が期待されるところである。

第1回配布資料(PDFダウンロード)

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第2回(10月16日) 上野正章「日出新聞に記録された京都の謡会」

 明治期末に発行された『京都日出新聞』で特筆されるのは芸能記事の充実である。とりわけ謡に関する記事は群を抜いている。市中で開催される謡会の案内が頻繁に掲載され、能会の予定が報じられ、時折、批評も散見される。本講座はこれら新聞記事を材料に、1.当時の謡会の状況を明らかにし、2.京都文化の中の謡を描き出す試みである。

最初に行うのは、当時の謡会の実施状況を一望する試みである。材料は明治43年1月の『京都日出新聞』の演芸欄である。諸芸・娯楽を書き出して一覧表を作成し、考察を行った。指摘したのは次の2点である。a.ほとんど連日の如く市中で謡会が開催されていること。b.謡会には趣味の集まりと法事や追悼に際して行われる会があること。地図を用いながら謡会の開催場所を確認する作業も行い、ほとんどの謡会は個人宅や寺社仏閣といった定まった場所で開催されることを指摘した。

続いて試みたのは、新聞記事から当時の娯楽を概観する作業である。同じく同時期の『京都日出新聞』の演芸欄を利用して、当時の京都においてどのような諸芸娯楽が楽しまれていたのかということを明らかにした。認められたのは、次の種目である:演芸会、カルタ、相撲、浪花節、洋楽(ヴァイオリン)、落語、歌舞伎、美食会、篆刻、薩摩琵琶、玉突、八雲琴、演芸、菓子の展示会、活花、平家琵琶、服飾の展示会、古代音楽(雅楽)。

指摘されるのは、行われている娯楽の多彩さである。また、意外なのは、相撲や歌舞伎のような専門家が提供する諸芸のみならず、アマチュアの活動も積極的に報じられていることである。もっとも、様々な諸芸娯楽を認めることはできるものの、謡ほど活発に報じられているものは無い。明治期末の京都において、謡の人気の高さを確認することができる。また、同時に浮かび上がってくるのは、市民の文化活動における新聞報道の重要性である。

なお、多少の時間をとって、実際の案内記事を幾つかピックアップして音読する作業も行った。またあわせて、京観世の重要な担い手であった井上勝太郎の死去に際して報じられた追悼記事の音読も試みた。

第2回配布資料(PDFダウンロード)

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第3回(10月23日) 宮本圭造「謡講―謡がつなぐ人々の輪―」

 京観世の謡が伝承された場として、謡講の場に注目する。謡講とは、謡を習得するための組織であり、すでに戦国時代には存在した。初期の謡講に関する資料としては、『親俊日記』などがあり、室町幕府の政所執事を勤めた伊勢伊勢守の家臣が毎回頭役を定めて謡講を行ったことが知られており、江戸初期の『舜旧記』にも、謡講の実態を伝えるより詳しい記事が見え、豊国社の祝衆・禰宜衆を中心とする十数名がそれぞれ三十銭を供出し、山科の進藤伊予を師匠に迎えて、月次の謡講を行ったこと、謡講は慶長七年に始まり、同年中は頭人を二人定めていたが、翌年からは一人となったこと、毎回、謡曲一番の稽古を行っていたこと、などが知られる。この進藤伊予は進藤流の祖、進藤久右衛門忠次の父親にあたる人物で、京観世の謡講が広まる以前には、進藤流による謡講が盛んに行われていた。元禄二年刊『京羽二重織留』「諸芸会日」にも、双林寺林阿弥での観世流の月次二十二日謡会と並んで、高台寺昌純院での進藤流の月次十七日の謡会が挙がっている。前者は延宝元年五月二十二日没の服部宗巴の門流によるもの、後者は寛文二年九月十七日没の進藤以三の門流によるもので、謡講の式日は師匠の命日に合わせて設定されることが多かったらしい。進藤流の衰退とともに、江戸中期以後は京観世系統の謡講が大きな勢力を持つようになるが、京観世の特徴とされる蔭謡の記録は、『鸚鵡籠中記』に薗久兵衛宅の謡講について「唐紙障子を隔て聴之」と見えるのが早い。蔭謡の形態は、「障子を隔て聴」く聴衆の存在を意識しており、謡講が単なる謡習得のための場から謡を聴かせるための場へと変質していったことを示している。江戸後期の謡講が実際どのように運営されていたかを知る上で参考になるのが、各社中の謡講定書である。その具体例として、文化四年「朝倉社中謡講定書」、安政三年「井上社中謡講定書」などがあり、これによって、謡講が本番と稽古から成り、その参加者の多くは京都の商人であったことが知られる。京都の市中では夕方になると連日各地で謡講が催され、仕事を終えた町人が集って謡に興じた。謡講はまさに謡が人々をつなぐ場だったのである。

第3回配布資料(PDFダウンロード)

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第4回(10月30日) 中尾薫「江戸観世大夫元章の京都弟子家への視線」

 京観世に対して、江戸観世大夫がどのような交流を持ったのか、十五世観世大夫元章(一七二二~一七七四)を軸に、その歴史をたどった。まず、江戸観世大夫に、京観世が弟子入りするという動向は、これまで能の家元制度の確立の問題として、西山松之助『家元の研究』等で論じられ、なかでも観世元章の時代は、観世座門人組織の統制の新時代として注目されていることを紹介した。そして、元章の事跡のなかでは(1)一七五〇年、観世大夫継承お披露目の意味合いがあった晴天十五日間の勧進能で、すでに江戸の観世座衆と関西系の弟子がバランス良く出演していること(2)元章の事跡としてもっとも名高い能楽改革〈明和の改正〉において、弟子家への改訂新謡本『明和改正謡本』の使用を義務化し、それに則した習事の伝授に多くの労力を費やしたこと(3)音阿弥三百回忌法要のためとして上京し、京阪の弟子と交流を持ったことの三点に、元章の京観世への視線が象徴されているとまとめたうえで、京観世五軒家の浅野家八代栄足の『素謡世々之蹟』(庶民文化史料集成)「観世世代略図」によって、一六六八年に隠居して京都に居を移して素謡の教授を始めた福王家五代服部宗巴(茂兵衛盛親、一六〇九~一六七三)と観世家との関係や、観世大夫家へ京観世諸氏が弟子入りした歴史を確認した。
また、『明和改正謡本』の刊行は、地方へ広がる弟子家の謡を江戸観世大夫の謡に統一する意図があったと指摘し、芸の掌握という観点で元章が弟子家へ発行した習事の『免状之控』(観世文庫所蔵、観世アーカイブ参照(17/26))や、岩井家の『〔岩井家入門誓紙〕』(2-20)『〔誓紙ならびに一札等の案文〕』(1-04)、『〔寛政三年十二月小野藤助より岩井貞之丞ならびに岩井忠助あて起請文〕』(2-12)、『〔謡指南相続願案文〕』(2-01)を用いて、観世大夫を頂点としてその直弟子である岩井家を介し、さらにその弟子への拡大していることを確認した。

第4回配布資料(PDFダウンロード)

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第5回(11月6日) 日出新聞を読む/長田あかね「禁裏・仙洞能における京観世の謡―岩井直恒を中心に―」

 江戸時代に京観世の人々が活躍した場所は一体どこだったのだろうか。その最大の機会は禁裏御所および仙洞御所での演能であったとみられ、同時に最も名誉な活動の場であったと考えられる。禁裏・仙洞御所での演能は大きく二種類に分類できる。一つは「表の能」、すなわち公式の催しとして行われるもので、もう一つは「御内々の能」、すなわち私的な催しとして行われるものである。こうした禁裏・仙洞御所における演能には、いわゆる京観世五軒家の一つ岩井家の人々も出勤していた。そこで本講座においては、江戸時代後期までの禁裏・仙洞御所での演能記録を集録した『禁裏仙洞御能之記』(宮内庁書陵部蔵)を資料として、岩井家四代目の岩井直恒(享和二年〔一八〇二〕七十五歳没)および直恒と同時代の岩井家の人々が禁裏・仙洞御所においてどのような活動をしていたのかを検証して行くこととする。
『禁裏仙洞御能之記』を調査する限り、直恒とともに禁裏・仙洞御所において活動した岩井家の人々には、直恒の弟の岩井亀代治(寛政八年〔一七九六〕三十六歳没)と、岩井家五代目の岩井信精(文政十三年〔一八三〇〕七十八歳没)がいる。『禁裏仙洞御能之記』において、演能の際、彼らが担当する役種としてシテ・ツレ・地謡の三つが確認できた。岩井家の人々がシテを勤めた機会は少なく、少年時代の直恒が祝言の《養老》《金札》など数曲に出勤した記録程度しか確認することができない。また、ツレとしての活動が目立つのは、子方時代からの出勤が続く亀代治であり、いずれも片山家の人物がシテを勤める場合に限定される。その他、独吟、一調、素謡、舞囃子、仕舞などへの出勤が確認できるが、おそらくは岩井家の人々が最も多く勤めたのが、『禁裏仙洞御能之記』では殆ど記録に残らない地謡方であったとみられる。こうした役種の傾向は、『禁裏仙洞御能之記』を確認する限り、林・薗・井上家といった他の京観世の家々も同様であった。京観世の人々は、禁裏・仙洞御所において、シテを勤める機会こそ多くはなかったが、ツレや地謡方として演能を支える重要な役割を果たしていたと考えられる。
以上の報告にあわせて、岩井家旧蔵の資料の中から、寛政八年(一七九六)十月二日に仙洞御所で岩井家によって催された素謡会の記録である「寛政八年十月仙洞御所素謡番組写シ」一点も紹介したい。

第5回配布資料(PDFダウンロード)

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第6回(11月13日) 五島邦治「室町時代京都の能と謡―木内弥二郎を中心に―」

 京都の上京小川に住んだ「筆屋弥二郎」「筆弥二郎」とよばれる木内弥二郎は、みずからも能や謡、狂言を演じたが、とくに内裏で演能した上京の手猿楽役者渋谷の興行にプロジュース的な役割を果たしたことで知られている。しかし、彼の活動を記した公家の山科言継の日記『言継卿記』をみると、木内は公家の中御門宣治にふだんから祗候し、宴席などに陪席していた。また木内のみならず多くの素人猿楽者が公家邸での宴席で能や謡をしていることもわかる。武家では治部又四郎という室町幕府の右筆方奉行人、広橋家の家礼として活躍するが、実は土倉である高屋孫次郎、飛鳥井家の候人で言継の近所の酒屋である速水兵部丞などはその代表である。そうした彼らの多くは公家の被官や候人という肩書をもつが、実は京都の有力な都市民であることが多い。公家邸の酒や十種香、連歌などの席で余興に音曲や謡を以て交流、もしくはむしろ奉仕したのであるが、実はそのことが彼らの商業活動のうえで結果的には利益をもたらせたのである。

上杉本「洛中洛外図屏風」左隻の、上京小川と今小路との辻の西南の角にはひときわ目立つ店構えの屋敷が描かれている。東側の窓から畳の敷かれた室内が覗け、机や棚に筆墨らしいものや扇面の紙が置かれており、これが筆屋の木内弥二郎の家だと推測される。木内弥二郎が、はじめて山科言継の日記に記されたのは、中御門家での酒席であったが、そのとき木内は「筆弥二郎」とよばれており、当初から「筆屋」して知られた人物であった。これにさかのぼる明応・永正年間頃、内裏で演能した「筆大夫」というものがいるが、それは木内弥二郎の親あたりになるのであろう。天文十一年三月十三日に行われた葉室申沙汰による内裏での手猿楽に、木内弥二郎は「うたい小物」として召されたのであるが、そこでは「上京辺少者」が謡をし、そのあと五番の猿楽が行われた。木内の背景には、実は弥二郎と同じような都市民の、猿楽の同好の志(いわゆる数寄)がたくさんいたらしい。

第6回配布資料(PDFダウンロード)

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第7回(11月20日) 丹羽幸江・高橋葉子「常磐会本と京観世の録音」

前半 高橋葉子担当
【常磐会本とは】
京観世岩井七郎右衛門家は幕末の七代信発に後嗣なく、養子幸三郎も明治22年に早世したため断絶に至ったが、当時岩井家の後見役として尽力したのが筆頭弟子の大西寸松(虚雪)だった。寸松は宝暦年間より岩井に師事した大西家の四代目で、岩井家断絶後も岩井派の謡を継承し、五代目閑雪(大正5年没)の時代には大西一門は関西で最大の勢力を誇るまでとなった。常磐会本は大西家が大正三年から九年まで刊行した謡本で(大正二年にテスト版として30曲出版)、記譜が詳細で解り易く、囃子事や装束付なども記載された善本である。クライ落シ、イロ、中下ゲなどのフシや近古式地拍子など、岩井派の謡や古い謡の特徴を留めており、同時に刊行された『謡曲秘伝書』(閑雪話録)と共に当時の観世流の謡を知るための貴重な資料である。

【謡本改革の時代】
明治から大正にかけて謡は庶民の趣味や娯楽として急速に普及した。謡会は人々が気軽に集って謡い合う場として各地で楽しまれ、謡本も、教師に記譜してもらわねばならない従来のものから、基礎的な読譜力さえあれば謡える解り易い謡本へと改革が求められていた。一方この謡の隆盛に応じて24世観世宗家元滋は観世流の謡と謡本の全国統一を推し進め、流儀の体制強化を図っていた。観世清之・喜之と丸岡桂による先進的な『観世流改訂謡本』(明治41~42年)や『解説参考謡本』(大正元年)、前述の常磐会本などはいずれも観世宗家の許可なしに発行されたものであり、喜之がそのために一時破門される騒動にもなった。が、こうした優れた本の出版と成功は宗家自身の謡本改革を促すこととなり、『大正改版観世宗家正本』(大正9年)の刊行に至ったのである。(井上次郎右衛門家を継いだ田中基次も大正4年~11年にかけて独自の謡本を刊行している。)

【京観世の終焉】
観世流の謡そのものの全国統一も元滋によって強力に推し進められ、大正15年9月、大西家は門弟一同の協議により京観世の謡を正式に廃止して東京の宗家の謡に統一することを決定した。これにより京観世の謡は公式には姿を消すこととなり、常磐会本も現在東京の橋岡一門において使用されている以外には、使用されなくなった。

【岩井派の音楽理論】
岩井家四代当主直恒(享和2年没)は多くの書留や著書を残しているが、その内の『そなへ機』『あやはとり』は当時の謡の音階、フシ、技巧、記譜法に関する優れた理論書である。これらを編んだ契機の一つは15代観世大夫元章の行った明和改正本に対する危機感であり、著書の中で直恒は自らの理論が観世流本来の正しい謡を伝えるものであることを強調している。直恒の「十段音法」は音階の概念を提示する、当時としては先駆的なもので、常磐会本には「十段音法」が継承されている。
なお資料は当日配布のものに一部訂正を加えてある。

後半 丹羽幸江担当
京観世の謡が実際にはどのような謡であったのか、近現代に残された京観世岩井派の謡を謡本などの記された資料や録音資料をもとに音楽技法面から推測した。
まず記された資料からは謡本、常磐会本とその解説書『謡曲秘伝書』をとりあげた。これらは、大正2年、岩井派に連なる大西閑雪(奥付には大喜多信秀と記される)により大阪で発行された。解説書は、『大西閑雪翁謡語録』(明治40?42年、法政大学能楽研究所所蔵)の抄録である。これらをもとに、京観世の謡は、京都という地方性を強調しつつ、岩井直恒以来の古い伝統を保持した独自性を持つことを指摘した。
その具体例を挙げれば、『謡曲秘伝書』では、「はんなりと」謡えとの指示が頻出するとともに、しばしば「東京の謡」との比較がなされる。また岩井派が仰いだ16世紀の観世大夫黒雪の記譜法が言及されている。そして、常磐会本からは、顕著に岩井派の特色が表れた節付け記号として、ヨワ吟の装飾音イロと、ツヨ吟のクライ落シが挙げられる。とくにクライ落シは『当流拾遺大成謳』(1692)以降、伝統的に用いられてきた節付け記号であるが、『明和改正謡本』(1765)で廃止された後も、常磐会本ではこれを使用し続けた。
録音資料からは、上田東一郎氏(1893生)の〈山姥〉の録音(『京観世を訪ねて』昭和55年、CBSソニー)をとりあげ、クライ落シの謡い方を抽出した。現在ではツヨ吟の中音より低い音域の音(中音・下ノ中音・下音)のうち、下ノ中音と下音には音高差がないが、これは明治以降に広がった謡い方である。岩井派での、下ノ中音と下音とにはっきりと音高差(短3度)を付ける謡い方は、明治以前の古い謡い方を一部で保持していた可能性が高い。
以上、京観世の岩井派の謡は、中央の謡で廃された伝統的な楽譜上の記号や実際の謡い方を保持し伝承し続けてきた謡であると考えられる。役者の演技を伴わず、素謡を中心としたことが、その背景となったと推測する。

第7回配布資料(PDFダウンロード)

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第8回(11月27日) 高桑いづみ「実践としての謡―音楽としてのおもしろさはどこにあるのかー」

 能は、謡で情景も心理も描写する演劇である。いかに声によって表現するか、いかに節付けをするか、そこからすべてが始まると言っても過言ではない。
講座では《隅田川》を例にとり、室町時代の京都のアクセントに沿ってゴマの向きが変えられていること、その上でコトバとして強調したい詞章に「クル」「上」など高音域を指示する直シが入っていることを確認した。観世文庫が所蔵する観世元久章句本の《隅田川》は16世紀中葉の書写だが、基本の節付けはそれ以後現在まで変わっていない。アクセントに基づきながら強調したいコトバを生かす様に節付けするのが基本だったのである。後世、流儀ごとにさらに細かく謡い方を工夫するようになった。講座では宝生流を例にあげて、地拍子(リズム)を工夫して詞章をさらに強調したり、従来よりもさらに高音域(甲グリ)で謡うなどの工夫をした箇所を指摘した。
しかし、アクセントは時代によって変化する。いつまでも室町時代のアクセントを残して謡っていたのでは、新しい時代に生き残ることはできない。そこで、少しづつ謡い方の傾向が変わっていった。たとえば享保12年(1727)に板行された『音曲玉渕集』でも下ゲゴマで音を下げるよう指示しているが、その下げ方は桃山時代の謡伝書『塵芥抄』とは少し異なっている。現在に至っては、ゴマの向きに従って細かく音を上げ下げすることはほとんどなくなった。もはや室町時代のアクセントに従って謡わなくなったのだが、それだからこそ謡は室町歌謡という一時代の歌謡から脱皮して普遍性を有する歌謡、語り物となりえた、と言えよう。その変化にこそ、時代とともに生きる謡のおもしろさがある。京観世は、江戸後期に遡る古い謡い方を残していた、と言われている。しかし人が変われば、世代を異にすれば謡い方は変わる。明治以降謡い方が変化した例を宝生九郎(1837~1917)晩年の謡や高橋進(1902~84)、観世華雪(1884~1959)、初世梅若万三郎(1868~1946)、桜間弓川(1889~1957)などの録音で聴きながら、京観世もさまざまな謡い方の中の一つであったと結論づけた。

第8回配布資料(PDFダウンロード)

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公開:2014年07月29日 最終更新:2018年05月17日

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