京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター

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伝音アーカイブズ

平家物語の音楽その2 ─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!? ─

本稿は、2013年11月9日、一般社団法人荻野検校顕彰会・朝日カルチャーセンター名古屋共催「特別企画 師長公と琵琶白菊」(於名古屋市西文化小劇場)のプログラムノートを若干改訂し、当日の演奏の映像を挿入したものです。映像は顕彰会が撮影されたものを、関係各位のご厚意により転載させていただきました。記して御礼申し上げます。

フジワラノモロナガ

今回のテーマは『平家物語』の「大臣被流」などに登場する、平安末期の音楽大家、藤原師長(フジワラノモロナガ 1138~1192)です。『平家物語』『源平盛衰記』で彼にまつわる曲を、彼が遺した箏譜『仁智要録』琵琶譜『三五要録』をもとに再現してみます。

追記:以下のページに他の曲の動画を掲載しております、合わせてご覧ください。

Ⅰ 平家物語に描かれる絃楽器

雅楽といえば、篳篥の音色を想像される方が多いかと思いますが、では、絃楽器─箏・琵琶─はどのような音を奏でているでしょうか?
この問いに、即答できる方はけっして多くないとおもいます。絃楽器に人々の注意・関心が向かないのは、それらが専ら伴奏役だからです。したがって絃楽器のみ独立して演奏される機会はまずありません。また絃楽器のみを専修する人もいません。ところが、『平家物語』をはじめとして平安時代から室町時代に書かれた物語や日記のなかの公家・武士・僧侶たちは、日常的に絃楽器のみを弾いています。というのは、当時の絃楽器は伴奏楽器ではなく「旋律楽器」であったからです。
前篇の小督の〈想夫恋〉の物語と同様、今回とりあげる藤原師長流罪の物語も、単独で絃楽器を弾く場面を描いている一例です。

Ⅱ 大音楽家藤原師長(妙音院)と琵琶譜『三五要録』・箏譜『仁智要録』

生涯二度も配流(土佐と尾張)に処せられ、政治家としては不遇におわった師長ですが、音楽に関しては、箏・琵琶のみならず様々な声楽(声明や郢曲)の分野で非凡な才能を発揮しました。今に伝わる彼の代表的音楽業績といえば、琵琶譜『三五要録』と箏譜『仁智要録』です。両譜集とも約二百曲を収録し、また同時代の他者の楽譜との異同も詳細に記録されており、質・量ともに古代中世の金字塔的音楽資料です。自筆本は現存しませんが、写本として伝存しています。今回は、『平家物語』『源平盛衰記』の師長尾張配流の話のなかで、師長自身が琵琶や箏で弾いた曲のいくつかを、『三五』『仁智』の楽譜から再現してみます。

Ⅲ 〈秋風楽〉─哀愁の調べ、二度の流刑を経験した師長の境地─

師長は、保元元年八月から長寛二年六月まで(1156~1164)と、治承三年十一月から養和元年三月まで(1179~1181)の、二度の流罪を経験しました。一度目は父頼長が政変(保元の乱)の首謀者とされたため、その連坐をとわれ土佐に流されました。帰洛後は一転して、後白河法皇の信任を得て出世をかさね、遂には従一位太政大臣にまで登りつめます。ところが、強大な権力を誇る法皇そしてその取り巻きの大臣たちを快く思わない平清盛の陰謀にはまり、師長は解官されたうえに再び流罪の憂き目にあってしまいます(治承三年の政変)。二度目の配流は尾張の国、熱田社ちかくの井戸田の里(現名古屋市瑞穂区)に謫居します。師長は熱田社に参籠し、自前の名器「白菊」の琵琶でもって〈石上流泉〉〈啄木(タクボク)〉など秘曲の数々を大神に供養し、そして白菊を奉納します。参籠を終えた師長は出家して妙音院理覚と名乗りました。
余談ですが、師長が奉納した白菊の琵琶は、その後紀州徳川家など様々な人々の手に渡り、そして今は東京の三の丸尚蔵館にあります(真贋のほどは判りません)。一方で名古屋には白菊伝説なるものが語り継がれています。 ──謫居中、師長は村長横江氏の娘をみそめ傍におきました。数年後赦免されて京へ帰る時、庄内川の岸まで師長を見送りにきた娘に、師長は自分の形見として白菊の琵琶を渡します。娘は悲しみのあまり琵琶を懐いて土器野の池に入水しまう──といった悲恋物語です。『尾張名所図会』などに取り上げられています。この伝説は、おそらく後世の作り話でしょう。政治的にはあまり存在感がなく知名度の低い師長ですが、尾張名古屋には、枇杷島、妙音通り、師長町など、彼にまつわる地名もたくさんあり、(少々色男的な)キャラクターとして今なお人々から親しまれている存在です。

嶋川稲荷

藤原師長謫居址推定地(名古屋市瑞穂区土市町1丁目、嶋川稲荷)

さて、話をもとに戻しましょう。赦免され京に還った師長ですが、高野本平家物語「嗄声」(小学館日本古典文学全集所収)によると、後白河院に謁見し、御前で〈秋風楽〉を弾いたとあります。今回は、まず師長帰洛にちなむ〈秋風楽〉を例に、現行の演奏と『三五』『仁智』にもとづく再現とを弾き比べしてみます。  ところで、当地に伝わる白菊琵琶伝説しかり、師長といえば「琵琶」というイメージが付きまといますが、実際は琵琶よりも箏を好んだようです。とくに出家後は、もっぱら箏に傾倒したようです(『愚聞記』、註1)。
高野本は、師長が院御前演奏で琵琶・箏どちらを演奏したのか記していません。そこで今回は、琵琶・箏両方をデュオでお聴かせします。
まずは、現在の市販譜、こんにちの奏法による、〈秋風楽〉を演奏してみます(註2)。ただし、演奏箇所は、冒頭から拍子二の前まで(曲全体の11分の1程度)です。ではお聴き下さい。

今お聴きいただいたのと同じ個所を、現行の演奏慣習によらないで『仁智要録』『三五要録』を読み解いてみます。ではお聴き下さい。

この現行の〈秋風楽〉演奏は、たいへん時間を要しますので、小督の〈想夫恋〉のように誰に聴かせるわけでもなく一人で弾いていたという設定ならばまだしも、誰かに聴かせる演奏──この場合は後白河法皇御前での演奏──となると、やはりそれが鑑賞に堪えうる音楽か、ということが問題となってきます。状況から考えて、当時の雅楽は、箏のソロ、琵琶のソロでも鑑賞に堪えうる音楽──つまり伴奏音型ではなく旋律──であったわけで、篳篥・龍笛の管方がいなくても音楽として十分成り立っていたと考えるほうが理に適っています。それでは、『仁智』『三五』の〈秋風楽〉を初めから最後までお聴き下さい。

あくまで物語ですから、本当に師長は帰洛直後に法皇御前で弾奏したのか、そしてその時の曲が何であったか、今となっては確かめようがありません。物語の伝本によっては、〈還城楽(ゲンジョウラク)〉〈賀王恩(カオウオン)〉を弾じたとしていますが、高野本では、一度目の流刑地土佐から還ってきた折の御前演奏が〈還城楽〉〈賀王恩〉で(註1)、二度目の尾張から帰京した時が〈秋風楽〉としています。父頼長の戦死や二度の配流を経験して、ただただ後生を願ったであろう師長の境地を、読み手に伝えるための曲として、哀愁に満ちた〈秋風楽〉は確かに妥当といえます(〈還城楽〉〈賀王恩〉についてはいずれ機会を改めて演奏したいとおもいます)。
ちなみに今回、箏の頭部を膝の上に置いて演奏してみました。当時も現在と同様に、床に置いて演奏することも一般的でしたが、おもにそのようにして演奏していました。女性は床置きで左膝を立てて演奏することもあったようです。また、琵琶は磯の部分を右袖の中にスッポリ入れて演奏してみました。これも当時としては、袖をまくるのとともに、一般的な琵琶の構え方です(註3)。ぜひ、絵巻物などに描かれる箏・琵琶を弾ずる人物をよく観察してみてください。

Ⅳ 琵琶秘曲〈大常博士楊真操〉〈流泉(石上流泉・上原石上流泉)〉
─西洋的!?三和音に弥勒浄土を想う─

師長が謫居中に熱田社で琵琶の秘曲を奏したくだりまで話を巻き戻します。師長が弾じた〈大常博士楊真操〉〈流泉〉は、こんにちには伝承されていない、琵琶の独奏曲です。 承和年間に唐に渡った藤原貞敏フジワラノサダトシ807~867)は、琵琶を廉承武(レンショウブ)に師事し、数々の琵琶曲を日本に伝えました。なかでも琵琶独奏曲〈大常博士楊真操〉〈流泉〉〈啄木〉は、のちに琵琶の三秘曲としてたいへん珍重されます。
〈流泉〉は、正確には石上流泉と上原石上流泉の2曲があります。いわば破と急といった関係で、同趣のフレーズで構成されています。貞敏が唐から伝えたのは石上流泉のみで、上原石上流泉は日本での作曲と考えられます。『十訓抄』下十ノ十九によれば、上原石上流泉は廉承武の霊が村上天皇(926~67)のもとに現れて伝授した曲、とか、廉承武の霊が若い女にとり憑いて源高明(914~83)に伝授した、とあって、作曲経緯そのものがすでに霊験的様相に包まれています。平安中期には、心の浄化を目的として〈流泉〉〈啄木〉が演奏されていたことが、同書下十ノ七二にある寛朝僧正(915~98)の話から窺えます。そして平安末・鎌倉時代になると、これら秘曲の伝授を受けることが、密教の「灌頂」に相当すると考えられ、「琵琶灌頂」などという伝業作法が確立していきます。
三曲のなかでも〈流泉〉は、兜率内院(天上の浄土)の弥勒菩薩が聖衆の菩提心(悟りへの欲求)を啓発するために常に調べている曲とされ、〈菩提楽〉という別名でも呼ばれました(『源平盛衰記』青山の琵琶流泉啄木の事)。
『源平盛衰記』師長熱田社琵琶の事によれば、尾張配流中に熱田社に参詣した師長は、「調弾数曲を尽くし、夜漏深更に及んで、流泉・啄木・楊真操の三曲を弾じ」、それを聴いた村人たちは皆、「清濁を分かち呂律を知る事はなけれども」感涙したといいます。そして更に〈上玄石象(上原石上流泉)〉を弾くと、宝殿が鳴動して、ついに熱田明神が現れます。そして師長に、「汝が秘曲に堪えず、我、今影向せり…帰京の所願疑いなし、必ず本位に復し給うべし」と告げました。この託宣を聞いた師長は「災いは幸いという事は、か様の事にや」といって涙を流した、ということです。 市井の者も、そして熱田の大神さえも感動するほどの琵琶の秘曲とはいったいどのような曲だったのでしょうか。〈大常博士楊真操〉〈石上流泉・上原石上流泉〉続けてお聴きください。

演奏者のテクニックの拙さには耳を塞いでいただくとして、この音楽そのものに感涙した方はどれほどいらっしゃるでしょうか。菩提の境地に達した方はどれほどいらっしゃるでしょうか。おそらく大半の方が首をかしげていらっしゃることでしょう。そこで、これらの秘曲、とくに〈流泉〉がどのような旋律なのか少し考えてみます。
石上流泉と上原石上流泉、どれほど凝った旋律なのかとおもいきや、曲全体の前半分は、黄鐘・上無・平調(A・c#・e)の基本三つの音しか使われていません(ただし、ときおり経過的に盤渉〔B〕が出てきます)。この三つの音を今風に説明すれば、Aメジャー・コードの構成音。当時の人々は、長三和音の明るい響きに、弥勒菩薩の天国を感じたのではないでしょうか。ちなみに〈楊真操〉ですが、これは風香調という調絃を用います。この調絃は四本の絃を、黄鐘・神仙・平調・黄鐘(A・c・e・a)。つまりそれはAマイナー・コードの構成音(註4)、暗い短三和音の響きです。長3度音程/短3度音程の積み重ねによる和声原理は、西洋音楽の専売特許のように思われがちですが、唐時代の中国ではすでに芽生え、また(一部の階級の)日本人もいち早くそれを受容していたことになります。音の積み重ね方次第で、明るくもなり暗くもなる。これらは様々な音楽に取り囲まれて暮らしている現代の我々にとってはごくあたりまえの響きで、むしろ陳腐な印象さえもうけますが、恐らく当時の人々、とくに市井の人々にとってはどれほど摩訶不思議な音響現象に思えたことでしょう。
石上流泉と上原石上流泉はまた、曲の終止が宮音(黄鐘A)、つまり主音ではなく、短3度下の羽音(下無F#)で終止している点で他に類例のない曲です。西洋音楽に例えて言うならば、平行短調に転調して終止しているようなものです。終止感に乏しい羽音終止は、曲前半の、黄鐘・上無・平調の明るいAメジャー(主和音)の世界に戻りたいという欲求を生みます。すなわち、永遠に繰り返される曲であるわけです。その点も、この曲が仏教的思想と深く結びついた所以でしょう。
師長の演奏を聴いた市井の人々は、「呂律を知る事はなけれども」、つまり音楽の理論が解らないにも関わらず感涙したといいます。その時、これ等の琵琶秘曲が日本に伝わって、すでに300年以上が経過していたわけですが、それでもなお(都の公家・僧侶・楽家はさておき)地方の一般の人々には世にも奇特な曲といった印象だったのではないでしょうか。

Ⅴ 演奏者・スタッフ

演奏・企画構成 田鍬智志(日本伝統音楽研究センター准教授)
演奏 齊藤 尚(同センター図書室非常勤嘱託員)
ウェブ構築 東 正子(同センター非常勤講師)
(所属は2014年1月現在)

註1
「妙音院、土佐国ヨリ被召返テ、後白川法皇御前ニテ箏ヲ弾給ケルニハ、初ニハ還城楽、次賀王恩ヲソ弾給ケル、出家ノ後ハ箏ヲノミ引給ケリ、比巴ハ目暗法師ニ似レハトソ」『愚聞記』上。
註2
時間の制約上、『仁智要録』盤渉調調絃推定案「一f#、二B、三d、四e、五f#、六a、七b、八c#、九e’、十f#’、斗g#’、為b’、巾c#”」を採用しています。現行の盤渉調調絃では、第三絃がc#、第六絃がg#です。ちなみに『仁智』巻一の調絃法は、盤渉調絃の場合「一B、二d、三f#、四a、五b、六d’、七e’、八f#’、九a’、十b’、斗c#”、為e”、巾f#”」となっています。これはいわば実践現場向きの調絃法といえるもので、平調・太食調調絃の柱列を基準にして一部の琴柱を動かすだけで他のあらゆる調絃への変更が可能です。管絃舞楽など様々な調の曲を次から次に奏さなければならない場合には向いていますが、しかし反面、平調・太食調(乞食調)曲以外は楽譜通りに弾くと他の楽器と合わない(ずらして弾かなければならない)という難点があります。
註3
『愚聞記』上、「箏ヲ膝ニ置事、袴キハナトキテ、如木ノ人ナトハ無子細、サナカラン人ハ、下ニ箏ヲ置テモ可弾也、(中略)女房ハ左ノ膝ヲ立テ箏ヲハ下ニ置テ可弾也、/大方ハ箏ヲハ膝ノ上ニ、竜角ノアタル程ニ可置也」。『胡琴教録』上、「袖をまくりてひくやうあり、又比巴を袖のうちにいれてひくやうあり、よくよく可斟酌也(後略)」。
註4
(琵琶)風香調の調絃について、『三五要録』には笛盤渉調に合わせる場合は全体に長2度上の盤渉・壱越・下無・盤渉(B・d・f#・b)に設定するよう書かれています。これらの風香調調絃については、藤原貞敏が唐にて書写し持ち帰った『琵琶諸調子品』を踏襲しています。

公開:2014年01月30日 最終更新:2018年05月17日

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