京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター

京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター

 

伝音アーカイブズ

平家物語の音楽その3 ─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!? ─

このページは2014年11月8日に名古屋市西文化小劇場でおこなわれた演奏会「特別企画 平経正と琵琶青山」(文化庁・一般社団法人荻野検校顕彰会・朝日カルチャーセンター名古屋共催)のプログラムより、解説「平安末期の音楽様式と管絃往生思想─平経正と琵琶青山─」を転載し、当日の演奏映像をはめこんだものです。転載にあたって、横書きに改め、ルビをはずして括弧にいれ一部のルビは削除しました。また一部の漢字はひらがなに改めました。新たな加筆部分は【 】で括りました。
撮影ならびにネット公開をご快諾いただいた荻野検校顕彰会各位に篤く御礼申し上げます。

追記:以下のページに他の曲の動画を掲載しております、合わせてご覧ください。

Ⅰ 平家物語に描かれる絃楽器 ─青山の琵琶を弾く平経正─

昨年の「師長公と琵琶白菊」に続いて今回も、平家物語のなかで雅楽の絃楽器、琵琶を単独で演奏している場面 ─青山の琵琶を弾く平経正─ をとりあげます。現在では完全に伴奏楽器といえる(雅楽の)琵琶ですが、平安時代から室町時代に書かれた物語や日記のなかの公家・武士・僧侶たちは、日常的に絃楽器のみを弾いています。というのは、当時の絃楽器は伴奏楽器ではなく「旋律楽器」であったからです。
音楽学者ローレンス・ピッケン(Laurence PICKEN 1909〜2007)によれば、大陸より舶来した当時の雅楽は、大陸的・歌謡的なメロディーであり、その後徐々に何倍も、曲によっては十数倍も〝まのび〟したといいます。こんにちの雅楽はあまりに〝まのび〟しているため、絃楽器が旋律を奏していると認識できないのです。今のように、絃が伴奏をしているように聴こえるほど〝まのび〟した雅楽となったのは、鎌倉時代や室町時代ではなくもっと後の時代と考えられます。
昨年同様、平安末期の大音楽家、藤原師長(1138~1192)が撰した琵琶譜の一大集成『三五要録』を用い、また、同時代の南都楽家狛氏の龍笛譜である『管眼集』も使用して当時の雅楽の再現を試みます。(文 田鍬)

【まずは、〈青海波〉という曲を例に、古今の音楽様式の違いを説明します。〈青海波〉は平経正・琵琶青山と縁の深い曲の一つです。はじめにこんにちの演奏による〈青海波〉の拍子二まで(冒頭から6分の1まで)を演奏します。次に上記古楽譜などの史料解釈による〈青海波〉の拍子二まで(同じ部分)を演奏します。同じ曲の同じ部分であることを留意しながら聴きくらべてください。】

Ⅱ 人生最期に音楽を実践する平家の貴公子たち

平安後期以降には、管絃歌舞の実践・観想によって往生を得る「管絃往生/成仏」思想が僧侶・公家の間に広まります。管絃歌舞の実践=功徳となる教えは、いくつかの経典にみえますが、特に次の妙法蓮華経方便品の一節が代表的です。

若使人作樂 撃鼓吹角貝 簫笛琴箜篌 琵琶鐃銅鈸 如是衆妙音
盡持以供養 或以歡喜心 歌唄頌佛徳 乃至一小音 皆已成佛道
(もしくは人をして楽をなさしめ、鼓を撃ち、角・貝を吹き、簫・笛・琴・箜篌、琵琶・鐃・銅鈸、かくの如きもろもろの妙音を、ことごとく持って、以って供養し、或いは歓喜の心を以って、歌唄して仏の徳を頌し、ないし一の小音をもってせしも、皆すでに仏道を成ぜり)

平安後期や鎌倉期において、管絃実践は、念仏行とともに、成仏するための/往生を得るための簡易な行法として、二大潮流となっていました。平安後期の公家・僧侶・武家は、往生講あるいは管絃講などという講を組織して、管絃歌詠を中心にした講式を盛んに行いました。都落ちした平家一門も、逃亡の途次、旧都福原の亡き清盛の御所で管絃講をおこなっています(源平盛衰記巻第三十二)。敦盛・経正・重衡をはじめとする、『平家物語』『源平盛衰記』に描かれているところの平家の貴公子たちはみな、死期をさとった時、音楽を実践します。敦盛などは、敵陣の熊谷直実の耳にまでその笛(篳篥か)の音が届こうとも全くお構いなし。それは、死を目前にしてもなお風雅を愛でる心の余裕を誇示することが目的なのでしょうか。極端な寒暑と飢餓が支配する末法の世が到来すると信じられていた時代、とくに在家一般の者にとっての〝避難先〟は、阿弥陀の西方浄土もしくは弥勒の兜率天の浄土しか選択肢はありません。彼らにとって、この世での武士としての見栄や敵/味方など、恐らくどうでもよいことで、浄土往きの決定(けつじょう)を得ることしか頭になかったのではないでしょうか。そのために彼らが最期に行った善徳、それが音楽実践です。そして『平家物語』はそんな彼らの生きさまを通して管絃往生を説く、教化(きょうげ)物語といえるでしょう。(文 田鍬)

Ⅲ 〈輪臺〉〈青海波〉 ─琵琶弾奏で往生を願った経正─

〈青海波〉は、経正と青山の琵琶にゆかりの深い曲です。『源平盛衰記』には、経正が演奏した〈青海波〉について二つの場面が書かれています。一つ目は経正が「青山」の琵琶を初めて弾く場面です。
経正は、第五代御室の覚性法親王(1129~1169)の寵童でした。十七歳のときに初冠(ういこうぶり、元服)し、宇佐宮(宇佐神宮)の御使に任じられます。その際に法親王から青山の琵琶を拝領して下向し、宇佐神前にて〈青海波〉を演奏しました。ちなみにそのとき、神が二羽の千鳥に化現し神殿の内から飛び出て社殿の上で舞い遊んだといい、経正は感謝して、〈青海波〉をやめて琵琶の秘曲〈石上流泉〉(後述)を弾きだし、宮人たちの感涙を誘いました。
もう一つは青山を仁和寺に返上する場面です。寿永二年(1183)、木曽義仲が京都へ攻め入ったため、平家一門は安徳天皇を擁して西国へ落ち延びます。『平家物語』の「経正都落」では、経正が都落する直前に第六代御室の守覚法親王(1150~1202)に琵琶青山を返上する場面があります。経正は「もう都に帰ってくることはできない。かつて拝領した青山の琵琶をいつまでも御形見にと思っていたけれど、このような銘器を旅の途中で失ってはならない。」と、部下数人だけ伴って仁和寺の法親王を訪ねます。
『源平盛衰記』には、「郎党有数を召して、錦の袋に入れたる青山といふ琵琶を取出だして〈輪臺〉〈青海波〉〈蘇香〉〈万寿楽(万秋楽)〉の五、六帖をぞ暫し弾じ給ひける。これを最後と弾き給へば、聞く人涙を流しけり。」(巻第三十一)と書かれています。経正は青山の琵琶を拝領したときに弾いた〈青海波〉を、法親王そして琵琶との別れの曲に選んだのです。その〈青海波〉の音楽は、循環して何度も登場する主題が特徴的で、仁和寺宮や都の生活、そして青山との愛別離苦が表現されているように感じられます。
さらに経正は〈輪臺〉〈青海波〉〈蘇香〉〈万寿楽〉の四曲に特別な想いをこめたようです。即ちそれは「たとい西海(青海)が波の底(蘇合)に消え失せぬとも、必ずや万寿(=無量寿如来、つまり阿弥陀)楽土の蓮台(輪臺)に登らむ」というメッセージと読み取れます。そしてそれは「これ以上殺生をしない」という誓いに他なりません。
本日はまず、経正、仁和寺宮との別れの場面の〈輪臺〉〈青海波〉を演奏します。舞楽では〈輪臺〉を序の楽章、〈青海波〉を破の楽章とし、カップリングで演奏されます。実はこの二曲、曲想がたいへんよく似ており、似たフレーズが所々に現れ、終わりのフレーズは全く同一です。ただし現在の雅楽では、曲が〝まのび〟しているため、曲想が似ていることを認識するのは至難の業ですが(むしろどの曲も同じに聞こえてしまう!)、古譜の解釈による演奏では、このことを理解していただけると思いますので、注意して聞いてみてください。琵琶と龍笛による二重奏でお聴きいただきます。(文 齊藤)
【演奏ミスが多々ございます。ご了承ください。】

【なお、〈青海波〉については、「源氏物語の音楽 ─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!?─」でも取り上げていますので併せてご覧ください。】

Ⅳ 琵琶秘曲〈石上流泉〉〈啄木〉 ─三和音と特殊奏法の響きで解脱の境地へ─

承和年間に唐に渡った藤原貞敏(807~867) は、琵琶を廉承武に師事し、数々の琵琶曲を日本に伝えました。なかでも琵琶独奏曲〈大常博士楊真操〉〈石上流泉〉〈啄木〉は、のちに琵琶の三秘曲としてたいへん珍重されます。平安末・鎌倉時代になると、これら秘曲の伝授を受けることが、密教の「灌頂」に相当すると考えられ、これらを弾くことで仏の位・悟りの境地に近づけるとされたようです。うち〈石上流泉〉は、兜率の内院(天上の浄土)の弥勒菩薩が聖衆の菩提心(悟りへの欲求)を啓発するために常に調べている曲とされ、〈菩提楽〉という別名でも呼ばれました。一方の〈啄木〉は天人の楽で、この曲を聞く者は、生死解脱(しょうじげだつ)の心がそなわるといい、もとの名は〈解脱楽〉といったようということです(『源平盛衰記』青山の琵琶流泉啄木の事)。
これら琵琶の秘曲が、仏世界の楽、霊験あらたかな曲と捉えられるに至った理由、それは音楽そのものにあります。〈石上流泉〉の音楽的特徴については、昨年の「師長公と琵琶白菊」ですでにふれました。その特徴は、長3度音程/短3度音程の積み重ねによる(西洋的ともいえる)基本三和音の構成音を用いて旋律が作られていることにありました。同様に〈啄木〉も基本三和音の3度音程が天上世界的な明るさを醸し出している楽しい曲です。ただし〈啄木〉の魅力はそれだけにとどまりません。〈啄木〉の楽譜には、三種の特殊奏法が指示されています。
一つめは「啄木之音」。啄木つまりキツツキが木を小突く音の表現です。「バチ尻をもって、(皮の貼っている部分の)バチ面を突き、すなわち(左手の押さえ所の名の)〝也・八・ム〟等の声を有らむ【以撥尻突撥面便令有也八ム等聲】」と割注があります。今回は、バチ面を突く音と撥絃による音とを同時に出すと解釈してみました。
二つめは「下食之音」。下食(げじき)とは流れ星のことです。「バチ(撥)を以って(す)、バチ(桴)と覆手(ふくじゅ)を合わせ、ならびに四絃共にその音を得る【以撥合桴覆手幷四絃共得其音】」と割注があります。また頭註には「師の説、バチ(桴)、覆手の上(かみ)ならびにバチ面等を廻る【師説桴廻覆手上幷撥面等】」とあります。今回の演奏では、「バチの上端辺(裾)を覆手(絃の下端を取り付ける部位)に合すように四絃にあて、半円を描くようにすりあげて一斉に鳴らす」と解釈してみました。それは結果的に、薩摩琵琶の伝統的奏法「タテスリ」のような奏法です。流れ星のイメージにあっているでしょうか。
そして、三つめは「鳴飛之音」です。「バチ尻をもって挿し、(二の糸の解放絃の)乚絃、大指(親指)をもってバチ(撥)の角を四度打つ【次以撥尻挿乚絃以大指打撥角四度】」と註があり、そのあとに「バチ(撥)を抜く【抜撥之】」とあります。バチの柄のほう(バチ尻)を絃に間に突き刺して固定させ、バチの上端(裾)を指(親指)で叩いて(はじいて)振動させ、凧などが風をきってビョンビョン鳴るような音をだしてみます。下食の音、鳴飛の音、往時の人々はそれらの音に、空を自由に飛びまわる天人の姿を想い描いたのでしょう。(文 田鍬)

【〈石上流泉〉については、「平家物語の音楽その2─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!?─」でとりあげていますので省略します。〈啄木〉は後日あらためて演奏したものです。】

Ⅴ 演奏者・スタッフ

演奏・執筆 田鍬智志(日本伝統音楽研究センター准教授・琵琶)
齊藤 尚(同センター図書室学芸員・龍笛)
ウェブ構築 東 正子(同センター非常勤講師)
(所属は2014年12月現在)
公開:2014年12月12日 最終更新:2018年05月17日

京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター

610-1197 京都市西京区大枝沓掛町13-6 京都市立芸術大学新研究棟6・7・8階
TEL 075-334-2240 FAX 075-334-2345(教務学生課 音楽教務担当)

©Research Centre for Japanese Traditional Music, Kyoto City University of Arts.

ページ先頭へ